弦楽器が大好き♪
前回はクオリティの高い楽器を紹介しましたが今回は低い楽器を紹介します。
商業的な情報で品物が悪いという説明はあまり無いと思います。
こんにちはガリッポです。
ヴァイオリン製作のクオリティについて地図に例えることができるでしょう。
例えば日本を表すとき菱形の北海道、バナナの形の本州、四国と九州を○で描けば、日本で生まれ育てば直ちに日本だとわかります。これは正確ではなく各県や市町村の位置や面積が正しくありません。半島が省略されていれば存在すらありません。
楽器製作も同じように簡略化してとらえてもヴァイオリンですし、細部まで注意を払ってもヴァイオリンです。どちらも演奏に使用できれば間違っているとは言えません。
有名なのは江戸時代に伊能忠敬が歩いて測定し地図を作ったものです。
完成度の高さは開国後欧米の国が利用したほどです。
ヴァイオリン製作で今日に於いて難しいのは何が「正解」なのかという点です。
かつては流派ごとに正解が決まっていてそれにいかに近づくことができたかによって楽器の出来栄えや腕前の高さを判定することができました。
今でも工房の中ではそれがある場合もあるでしょう。
師匠がこれが正解だと教え、それに到達していなければ指摘されできるようになるまで訓練をし、ついに工房の製品として売ることが許されます。助手として師匠の楽器を手掛けることになるかもしれません。
しかしながら、「
弦楽器の正しい知識」と言うには個人的すぎるもので、その工房の中では「絶対の正解」であったとしても一たび工房を出たらもう通用しません。その基準で楽器を評価すると他の流派の楽器はすべて劣ったものとなってしまうのです。
私は19世紀のフランスの楽器製作はフランス全体がニコラ・リュポーを師匠とする一つの工房のようなものだったと推測しています。同じ正解を共有することで、職人の腕前を評価することが可能になった結果、非常に高い完成度の楽器がたくさん作られました。ミルクールで楽器製作に取り組んだ人の内、腕の良い人だけが選抜されパリに出て一流の楽器職人になりました。
このような基準は今でも断片化され場合によっては劣化してヨーロッパ各国に残っています。世界中にも伝わりました。ヴァイオリン製作コンクールもその一つです。
国際的なコンクールでは、職人たちは自分の流派の基準を信じてそのまま作って出展する人もいますし、審査員のウケを狙って「コンクールの作風」を研究する人もいるでしょう。過去に受賞している楽器の特徴を調べるのです。
審査員になった人も責任感のある人なら、なんとなく空気を読みながら自分の流派だけの考え方ではなく他の流派でも認めるようにするでしょう。
そうやって空気を読み合うのが現代の楽器製作と言えるかもしれません。
我々が楽器を見たときに「これはよくできている」とか「ひどい粗悪な楽器だ」と言う時にはこのようなはっきりしない空気のような基準を用いています。
多くの職人が認めるような楽器を持っていればどこの工房を訪れても「良い楽器ですね」と言ってもらえます。それに対して作者が独自の考えで作っていれば「好みの問題です」と言われるでしょう。
私には理解できなくてもその人なりに考えがあるのだとすればそれを悪い楽器だと断言するのは難しいです。視野が狭くて自分の工房の基準が世界のすべてだと思っている人は他人の楽器を見たときに悪い楽器だと言うでしょう。
多くの職人に認められる分かりやすいものはクオリティの高い物です。
クオリティの低いものでいかにその人なりの考えがあったとしても多くの職人からは認められることは無いでしょう。
クオリティが低い楽器を優れていると言うのは難しいと思います。
それに対して、考え方を表明して、優れた考え方を評価するということもあり得ます。
例えばピザを作るときに、生地が薄くてパリッとしたものが良いという人もいれば、厚くてもっちりしたものが良いという人もいるでしょう。イタリア風なのが本物だという人もいれば、日本人の味覚と食材でおいしければイタリアと違っても良いという人もいます。世界中に広まったアメリカ風こそ世界で評価されているとも言えます。
これらの考え方の中からピザ評論家が考え方の順位を付けて優劣を示すことができるでしょうか?
私なら、それぞれ別の食べ物として考えて楽しみ方の種類が増えることを歓迎します。どれか一つだけを正しいと信じて他は間違っているとは考えません。一度楽しみ方をしっかりと知る必要があります。食べたこともないのにアメリカ風が間違っているとか、日本のものしか知らずにこれがピザだと言うのは無知ということになります。
したがってピザの楽しみ方の流儀としてはいくつもの方向性があり、そのことを皆が理解して評価するなら部門ごとに評価する必要があるかもしれません。
しかし
弦楽器については、楽しみ方の流儀というのは確立していません。
こういう趣向の人にはこういう風に作ればいいというのが分かっていないのです。
国による味覚の違いに対応した調理法のようなものが無いのです。音の好みに国による違いがあったとしてもどうやってそれを作ったら良いかが分かっていないのです。どこの国の職人も自国の演奏者が好む音を作れていないのです。
そのため国による味わい方の方向性というのができないのです。
誰かが斬新なアイデアを取り入れて、大ヒットしてやがて主流になるとか、それが広まるということも起きません。芸術運動のように新しい作風が一世を風靡したり、ビートルズのようにそれまでの音楽を変えるようなこともないがの
弦楽器製作です。
当然ハイテク製品のように画期的な技術革新もありません。
また絶対的な性能より、初心者の使いやすさを優先した製品がスタンダードになることもあるでしょう。しかし
弦楽器ではそういう発想の転換によって大ヒットしたりということはありません。
私のいる国の考え方は、作業時間に基づいて楽器の値段を決める方法です。
丁寧に作られているものは作業時間がかかっているので高価になります。雑に作ってあるものは安くなります。
この場合、未熟な人や不器用な人が手間取って時間がかかったら高価になってしまうので、一定の基準に達しなければ一人前として認められません。その基準がクオリティということになります。
つまり、決められた時間内にクオリティが高い物を作れると一人前と認められ高い値段になるという仕組みです。高い品質であれば誰が作ったものでも高級品です。
これは日本には無い考え方だろうと思います。
品物がどうであるかではなく人物の評価が知れ渡ることによって「格」が決まります。作者の格によって値段が決まるという考え方です。あまりにも染みついていて自覚することもないでしょう。大相撲では横綱や大関のような番付という順位表があり、番付の順位によって給与も決まるようです。それに似ています。
高級品は格が高いと認められている人が作ったものとなります。品質が高くても作った人の格が高くなければ高級品とはみなされません。
そんなことは無いと言うかもしれませんが、以前紹介したデンマークのヴァイオリンは日本の楽器商には全く相手にされなかったものです。私の勤める店では高級品として売り出すことになりました。
日本人がこのように考えているわけですが、世界中がそういうわけでもありません。イギリスなどの楽器商が作ってきた価格の相場を番付と誤解してして日本人は受けいれたのでしょう。ところが実際には価格は厳格な審議によって決まるものではなくとんでもなくずさんなものです。日本人ははじめから公平に評価がされていると思い込んでいるのでしょうが、日本人のためだけに世界があるわけではありません。外国の人達は日本人の考え方に沿って動いてはくれないものです(実感がこもってしまいます)。
この考え方の違いをブログでずっと言ってきています。
近年、難しいのはクオリティを定義づけることです。
ひし形とバナナと丸でも日本地図と言えますし、伊能忠敬のように細部にこだわっても日本地図です。クオリティの差は歴然ですが、自由が前提の現代社会ではどちらが正しいとは言えないのです。かつてのフランスのような仕組みはもうどこにもありません。
19世紀のフランスのような仕組みの問題点は画一的になってしまうことです。
ユーザーの好みに対応することができず、楽しみ方の幅がありません。
現在でもコンクールでは空気を読むことによって世界中の製作者の楽器がそっくりです。
クオリティを絶対視するとこのようなことになってしまいます。
かといってクオリティを軽視すると伊能忠敬の地図とバナナの日本地図が同列で扱われることになります。
正解は皆さん一人一人が考えてください。
知名度とクオリティクオリティの高い楽器を買うべきだということは言えません。なぜなら音が必ずしも良いとは限らないからです。
私は「値段の高さ=音の良さ」という考えを捨ててもらいたいだけです。
楽器の値段は商人が知名度で決める場合と、職人がクオリティで決める場合があるということでした。
私が言いたいのは知名度はクオリティを表していないということです。
知名度が高い楽器にもクオリティの低いものがあります。職人から見てクオリティが低いのに値段が高い楽器があるとき、楽器そのもの自体には同程度のクオリティの安価のものと違いが無いとわかります。いかに高い値段がついていてもありふれたものと違いを職人の目からは見出すことができないのです。
物自体には違いは無いのに知名度によって値段が違うとすれば単なるプレミアということになります。
私が言いたいのは値段が高いからと言って下手な職人が作ったものは名工による名品ではないということです。それを気に入って買うのは自由です。ただし「天才による傑作」というのは間違いです。ただの粗品です。粗品であることは分かっていて自分にはそれで良いと考えるなら買っても良いです。ただし同じような粗品ははるかに安い値段でも存在しているということを知ってもらいたいです。
グァルネリ・デルジェズを粗品と理解すれば正しく理解したことになります。
ただし無名な作者による同じような楽器もこの世に存在するかもしれません。
クオリティと音デルジェズのように雑に作ってあっても音の良い楽器があります。もし音を楽器選びで最も重要な要素とするならそれ以外のことは無視することです。つまり値段も、作者名も、見た目のきれいさも関係ありません。
ただただ試奏して音の良い楽器を選べば良いのです。それしかありません。
「値段が高いから音が良いはずだ」と初めから思い込む必要はありません。
高くて音が良いものもあれば高いだけのものもあります。ちゃんと選ばなくてはいけません。
クオリティも音と直結しません。
ただし市場に出回っている「汚い楽器」のほとんどがただの粗悪品です。デルジェズのようなものは希少です。何億円も予算があるならクオリティで楽器を選ぶ必要はありませんが、10万円~100万円の予算で近現代の汚い楽器を買えばほとんどは粗悪品だと考えて良いでしょう。
見た目の美しさは音には関係ありませんが、外見を汚く作ってある楽器で音響上重要な部分だけしっかり作ってあるということはまずありません。
理論上は見た目は音に関係ないので外見はどうでもよく、音響的に重要なところだけしっかり作れば機能的には優れているはずです。しかし現実にそのような楽器はまずありません。外見をバナナの日本地図のようなレベルで作る職人は音響面や演奏面で重要な部分も大ざっぱに作っています。
いかにデルジェズのような楽器が珍しいかということが分かるかと思います。
同じ流派でもいい加減な仕事をする人のほうが音が良いということはよくあります。基礎がしっかりしていることが重要です。
それに対して20世紀以降の安価な製品は音が分からないような楽器店に卸すために見た目だけはましに作ってあるものです。
弦楽器だけを専門とする
弦楽器店ではなく様々な種類の楽器を売る楽器店のほうが初心者には敷居が低いでしょう。音響的に重要な部分(中身)がしっかり作ってなくても商品として成立するのです。
「ヴァイオリンっていくらくらいするの?」と未経験者に聞かれても安いのは数万円、高いのは数億円としか言えません。数万円の楽器で中身がしっかり作られているかというとそんなことはありません。
「いくら出せばしっかり作ってあるの?」となると「100万円もすればしっかりしたものはあります」と言えます。
その間はどうでしょうか?
個々の楽器のクオリティを見るしかありません。
何百万円とか何千万円、何億円もするような楽器を買う場合は作者が特定されていることが重要です。作者の名前が不確かだと財産の価値は大きく変わります。クオリティが高ければたいてい100万円程度の価値は保たれるでしょうが、低いクオリティで修理が必要ならゼロになることもあり得ます。
音が気に入って買った楽器のクオリティが高ければそれがニセモノだと判明しても腕の良い職人の作った良い楽器であることには変わりがありません。違う名前が貼りつけてあっただけです。
財産価値は激減しますが音は変わりません。
だからineresting(おもしろい)くらいで買ってはいけないのです。
疑わしきは罰せずのようなもので、疑わしきは買わずの精神で良いと思います。
クオリティに見合った値段で楽器を買っていればそれより価値が下がることがありません。
知らない職人の名前が付いていても我々職人が見て楽器のクオリティが高ければ150万円くらいは付けてもおかしくありません。クオリティだけでヴァイオリンを評価するとそれ以上にはなりません。我々職人はそのような楽器を見たときに畏敬の念を持ちます。自分の作風と違ってもよくできているものから伝わってくるものがあります。
商人は名前にしか興味を示さないでしょう。デンマークのヴァイオリンは世界的に名前は知られています。その程度では興味を示さないのです。もっと有名じゃないと商人からはぞんざいに扱われてしまいます。
演奏家は音にしか興味がないでしょう。
音にしか興味を持たないなら知名度は無視した方が良いです。
皆さんはご自由にお考えください。
・・・・・作のヴァイオリンこちらのヴァイオリンをご覧ください。
どんな印象を持たれたでしょうか?
これはアマチュアの作ったヴァイオリンです。
意外と悪くないと思うかもしれません。
このような小さな写真で見るとよくわからないものです。ブログに写真を載せていはいますが、写真ではよくわからないので私はコンピュータのディスプレイで楽器を見たりはしません。
私が見ればすぐに上等な楽器でないことは分かります。アマチュアの楽器製作者がどれくらいを目指しているのかよくわかりません。大量生産品と同等のものが作れれば売られているものと同等ですからよくできたと言えるかもしれません。
ただ、「ストラディバリを超えたとか画期的に優れたヴァイオリンの作り方を考案した」と豪語する人も結構います。趣味でやっている分には楽しいですが・・・。
指板に直線定規を当ててみると、真っ直ぐではなく真ん中が出てます。つまり曲がっているということです。こうなると駒の位置もずれてきます。センターが決まっていないのです。こういうのは素人の典型です。まっすぐではなくて少しくぼんでいるのが正解です。端から端まで均等なカーブで弧を描くのが理想です。直線定規を当てると真ん中が0.5~1.0mmくらい空いているとOKです。
指板の上端も右と左で違います。弦の長さがE線とG線で変わってきます。もちろんわずかですけどもプロならこんなことにはならないです。
下のナットが外れてしまったので修理をすることになりました。
接着面はニスの色がついています。接着が不完全だったために隙間からニスが侵入してしまったのでしょう。このまま接着してもまた取れてしまうので…。
面を削りなおしました。これでナットと接着面に隙間が無くぴったりくっつくはずです。ちゃんとついていればニスが侵入するなんてことはありません。
他にも問題点を探せばきりがないわけですが、教育を受けていないと何が違うかというと基本的なことができていないのです。自分がちゃんとできていないということを知りません。知らないから自分はストラディバリを超えたとか従来のヴァイオリンを超えたとか豪語できるのです。
自分が気にしていない部分があることに気付くことができないのです。
バナナの日本地図のようなコーナーです。一流の職人が作った楽器のコーナーとは大違いです。コーナーを美しく作るということを教わっていないのです。楽器の機能には関係ないどころか邪魔なものですが、歴史上上等な楽器では美しく作られています。コーナーは理解していないのに他の部分は理解しているのでしょうか?
ボタンも上等な楽器とは違います。パフリングは波打ち、所々沈んでいたり浮き出ていたりしています。接着が不完全なのか溝がちゃんと彫っていないのか、とにかくクオリティが低いです。
裏板は量産楽器のように強く染めてありますが表板にも色が入っています。表板は場所によってステイン(染料)を吸い込む量が違います。そのため色が強くつくところとそうでないところができてしまいます。
f字孔の下のところ(画面では右)も色が入りやすいところです。
普通の木工ではあまり気にしない部分ですがプロの
弦楽器製作者にとっては「汚いな」と思うところです。家具などではスチールウールを白ワインビネガーに漬けて溶かした溶液を木に塗るとタンニンと反応して灰色っぽくなります。そのようなトリックを木工の専門家がドヤ顔でやっているのがネットにありますが、汚くて
弦楽器には使えません。
アマチュアの家具製作者にもこういう汚い染みのものはよく見ます。プロの家具職人がしっかりと作ると高くなりすぎてしまいます。数万円で本棚のようなものを作ると板をネジで止めただけで汚く塗装して「おしゃれ感」を出して売っています。
家具の話題を書くとキーワードで見つけるのか、そういうブログをやっている人がいいね!を入れて来ます。読んでないんでしょう、自分のことが非難されているというのにです。
青の矢印で示したのはエッジの厚みです。これが均一でなく裏板のほうが厚いですね。チャネリングの溝も深く彫ってませんからエッジ付近はかなり厚いですよ。ドジョウかウナギのような雰囲気がします。黄色の矢印はさっき言ったように色が入っています。ここに色が入ると汚く見えるのです。裏板も同様です。
丸で囲んだところはよく写っていませんが、ニスが剥げています。裏板を接着した時にはみ出た接着剤をきれいに取り除いていなくてその上からニスを塗ったために接着剤とともにはがれてしまったものです。
そんなこと?と思うかもしれませんがこういうのが基本ができていないということです。
こういうことは師匠に指摘されないと気付かないものです。
そうかと思うとスクロールは意外と悪くないですね。塗装は染みになっていて汚い感じがします。アマチュアでもこのレベルだとすれば、デルジェズなどオールドの名器ではこれよりひどいものがたくさんあります。名人でも何でもないのです。
近代のフランスやドイツの一流の職人ならもっときちっとしたものを作ります。イタリアでもうまい人はもっときれいに作りますが、この前のロメオ・アントニアッジとはあまり変わらないように思います。渦巻職人が作ったスクロールを買ったのかもしれません。
ペグはテーパーの角度も浅く見えますが表面も荒いように見えます。テーパーは強すぎるとペグが止まるのと動きやすさとの微妙なきつさのゾーンが狭くなります。ちょっと押し付けるときつくなりすぎて、ちょっと緩くするとペグが戻ってしまうのです。テーパーが浅いとどこまでも入って行ってしまってぺグボックスが割れるんじゃないかと恐くなります。
こういう楽器を作る人が豪語するものです腕の良い職人は謙虚であることによってもっとうまく作ろうとするものです。それに対してまともな教育を受けていないと気付かない部分があります。教育を受けても謙虚さが無いとそのあとも気づきません。
自分が気づいていない、見落としている部分があることに気付くことができるかというのが重要だと思います。
職人としてのセンスが無い人というのは言葉や数字ですべて説明できると思っている人です。数字に表れてこないような部分がたくさんあって、謙虚であることによって気付くのです。バナナの日本地図でも「うまくできた、完璧だ」と思うとそれ以上地図の完成度は上がりません。これではまずいと測量の旅に出かけたのが伊能忠敬です。
アマティやストラディバリはいろいろなところに気を使って作っています。ほんの些細なところにも世界があります。自分は完璧だと思ってしまうとそんなことに気付くことができません。
教育を受けても、初めのうちは全然うまくいきませんから、一つ一つの作業がきれいにできているかに意識が集中します。左右を対称にしなさいと言われたら、左右が対称かどうかだけに意識が行きます。何ミリにしろと言われれば寸法だけに興味が行きます。カーブが滑らかにしろと言われればカーブだけに興味が行きます。それがストラディバリなら完全な対称で無かったり完璧ではないのにバランスが良いので美しいのです。
先ほどの指摘のように間違いを指摘されると欠点ばかりに意識が行きます。欠点を探す見方で楽器を見ていても見えてこないものがあります。一生そのままだと楽器を見る目が育っていません。初めはそうやって欠点に気付くことを学ばなくてはいけません。楽器作りをやって1~2年はそんなものです。
5~6年もやっていれば欠点のないものを作れるようになります。
それで自分は一人前の職人になれたと思うのですが、オールドの名器を見ると愕然とするのです。全然違うのです。今まで良し悪しの見方として身に付けたことが全く通用しないのです。
多くの人はストラディバリを見ても、自分の流派の楽器製作と同じだと思い込みます。そのため違いを認めようとしません。ストラディバリを見ても見えないのです。例えばストラディバリ研究の第一人者として有名なサッコーニのことですよ。ここでも謙虚さがありません。仕事が雑なデルジェズに関しては「俺のほうがうまい」と考えます。
そういうわけでオールドの楽器を理解するのはとても難しいです。プロの職人が10年かかっても分かる人がわずかなのですから。
だからオールド楽器と同じものを作れる人がほとんどいないのです。
サッコーニのような世界的に有名な職人でもわからないことを一般の人が分かるというのは難しいですね。自分はすでに分かっていると思っていると何も見えてきません。ましてやポッジがどうだとかファニョッラがどうだとか言って分かっていると思っているようじゃどうしようもないです。
未熟な楽器製作者は井の中の蛙でいることによって全能感を持ち自分を過大評価しています。「画期的に音が良い楽器の作り方を見つけた」というようなものをなぜ相手にしないかというとこういう人が多いからです。私は「音はなかなかうまくいかない」と言います。
政治に関する論争も同じです。私がくだらないと思うのは全能感に満ちた素人が政治評論家気取りで物を言っている姿に見えるからです。年を取って気力がなくなってくると誰もがそうなってしまうのでしょうか?私も中学生頃は毎日ニュースを見て一喜一憂していたものでした。同級生は政治なんかには興味がありませんから、「けしからん」と思っていました。今は政治に熱心なほどその人の主張はおかしく聞こえます。
もちろんちゃんと教育を受けたプロだからとそれで全能感を持ったら同じことです。一般人の視点を失ってはいけません。
弦楽器を最大限活用するためのFirefoxプラグイン7つ
公式ハッシュタグランキング: 位 9年前、初めて過去生を見ました。 あの時は、「ふ〜ん」って表面上は装いながら、「え〜、もっとすごいの見たかった〜。」とか「そんなのヤダ〜っ!」とか思っていましたが、今になって、その景色が、私の中で、ものすごく大事な光景として温められていたんだなって。 そんなお話。長いですが、よろしければおつきあい下さい 私が誘導瞑想によって最初に見た過去生は、なんの時代かわからない、空想なのか、本当にあったのかわからない、大きな石をお金として用いている時代に、会社?勤めしている部長?の男性でした。笑 なんじゃそりゃ。 実際は、会社でもなければ、部長という職があるわけでもないけれども、そんな感じのまぁまぁそこそこな感じ。っていうね。 まず見えたのは、大きな自分の足。革でできたサンダルのようなものを履いていました。そこから視点をあげると、小高い丘に立っているようで、民家がちらほら、遠くの方に見えます。そのうちの1つがどうやら自宅のようです。そこに向かって歩き始めました。その時も子供がいなくて、仕事が終わると家に帰って奥さんと二人でごはんを食べる。 休日は、
弦楽器を二人で弾いて楽しんでいる。そんな慎ましやかで暖かい光景が見えました。 そして、その部長の最後の時も見ました。 奥さんに手を握ってもらいながら、安らかに、す~っと天に上がっていったんですね。 とても幸せな一生でした。 もう一つ。未来をその時に見ました。 それは42歳くらいの私。(ちょうどいま!!)今の家の前で、「ここは本当に私の家なの?入っていいの?」 そんな風に思いながら、がら〜んと静まり返った、寒〜い家に足を踏み入れる。そんな光景でした。外は、家々の電気が暖かく灯り、夕ご飯のいい香りがしてくるのに、私は、誰もいないような家に帰る。。。 そんな寒々とした景色にものすごいショックを受けた記憶があります。 当時、超絶夫婦仲が悪かったので、過去生は、ただただ羨ましく、未来は、「あ〜ありそ〜う。。。でも絶対ヤダ〜~っ!!」 って思ったのですよね。 結果、42歳現在の私は、家に帰りたくてしょうがない人間になっています。子供はいませんが、舐め回したい程にかわいい猫が2匹。 これは、あの時の、「絶対ヤダ〜~っ!!」が、きっかけになっていると思っています。 離婚も致し方なし。。と思っていたあの頃、「絶対ヤダ〜~っ!!」という思いが出てきて、自分を知れたんですよね。 その時はまぁ、「寒い家に帰る42歳にはなりたくない。」の「絶対ヤダ〜~っ!!」だったんですけども笑 そしてやっぱり、その「暖かい家」は、今の旦那さんと作りたいなって思ったんですよね。私がしたいことは、それなんだなって。 その時の状況がどうであれ、いや、その時の状況こそが、「その人と」成し遂げたいのに、「思うようになってくれない」からこそ「こじれちゃってる」 と、気づけたのです。 なので、「その時の状況」はおいといて、ただ粛々と毎日を過ごすことに決めました。 私が味わいたい経験は、「暖かい家」ということだけを覚えておくことにして。 それから9年紆余曲折ありながらも、なんとなくそんな感じになっています。長かったのか、短かったのか? そして!今年の春、「おまえの好きそうなのやってたから録画しておいたよ。」と言って、旦那さんが見せてくれた旅番組に映し出されたのが、 部長の時、丘から見下ろしていたまんまの景色!!! 衝撃でした。 北海道 美瑛にあるスプウン谷のザワザワ村というホテルです。 過去生で見たイメージに似てるからって、 「だからどうした」 なんですけどね。 やはりロマンを感じたのでした そして、方向性は間違ってないぞ〜つとお知らせをもらったような。 ⭐︎ 9年の月日をかけて、あの時見た過去生の意味と意義が私の中でじんわりと広がっています。 現在の私は、な〜んのプレッシャーもない日常がありがたくて幸せで。 何もしてなくても、顔がほころんできます。 それは強いプレッシャーを感じなければ味わえなかったこと。 その時期を終えて少しずつ、あの部長が見ていた景色と現在がダブっていきます。 私の場合は、「もう1度味わいたい。」もしくは、「それを大事にしたい。」 というのが自分(魂)からのメッセージだったんだなと感じています。 そしてそれを手にした今。今度はどんな景色が見えてくるのかなと。 スプウン村のザワザワ谷に行ったら、また違うターンが始まるのかな。 もうしばらく、今ある幸せを味わって、うちのニャンコたちがもうちょっと落ち着いたら、行ってこようかなと思っています。 置いていくの? 今夜(9/19) 21時までお受付してます。残席3名。お待ちしてます【募集】9月19日(火)誘導瞑想de前世を見てこよう♪の会